「どんなに今の状況がつらくても、受け入れてくれる場所は必ずある」~風俗情報誌『俺の旅』編集長・生駒明の半生~

2016年04月28日

by新海 亨新海 亨編集長
「どんなに今の状況がつらくても、受け入れてくれる場所は必ずある」~風俗情報誌『俺の旅』編集長・生駒明の半生~

いろんな意味で複雑な家庭環境に育ったんですよ。僕は中学から大学を卒業するくらいまで人生に絶望していましたね。それでも風俗の仕事をして、世界が広がり、救われたんです。

そう語り始めてくれたのはミリオン出版『俺の旅』編集長の生駒明氏。大手出版社でも雑誌の廃刊や休止が相次ぐ中、『俺の旅』は熱烈なファン層に支えられ、発行数を伸ばす業界では名物情報誌だ。そんな、生駒編集長の半生から、風俗業界で働く事の意義と、すべての働く若者へメッセージを語ってもらった

壮絶な幼少期から抗うつ剤を飲んだ大学時代

生駒明

子供の頃は勉強が出来てですね、運動もまあできて、小中高と学級委員をやるような人間だったんですよ。

勉強ができたので、中学卒業後の進路で地元の進学校の高校を希望していたんですけど、家庭の事情で行かせてもらえなかった。ショックでしたね。結局、高校は地元の一般校に進学しました。

当時の家庭環境も壮絶なものがありまして、割った瓶で腕を刺されるんですよ。全身血だらけになって、もうすごかった。しかも瓶を割るのは僕の頭ですよ。今でもその傷は残っています。

絶望して、あの家をいかに出るか、あの家を出ないと俺はもう真っ暗なわけですね。この家を出るために高校3年生の時すごい勉強したんですよ。

-生駒少年はそんな壮絶な家庭環境から逃げ出すように故郷から離れた新潟大学へ進学する

専攻はですね、新潟大学人文学部ヨーロッパ文化、卒論は19世紀ドイツのビスマルクの鉄血政策について論文を書きました。でもまあ落ちこぼれでしたね。はっきりいって。ぜんぜんダメでした。

大学を1年休学して、さらに1年留年して、6年もかかって卒業したんですよ。ただ卒業だけはしようと、せっかくここまで来たんだから。

でまあ半分引きこもりながら論文を書いていましたね。正直、抗うつ剤を飲んでいました。自分はなんでこんなにダメなんだろうと自問自答する日々でね。

-大学を卒業した生駒青年は、就職先が見つからず地元の安城市に戻る。そんな時、求人誌の雑誌記者募集の記事を見つける

地元に帰ってからは半年間くらい、なにもしない生活を送ってたんですよ。すると身内にも小言を言われるワケです。それに荒れ狂って、反抗して。家の中で親も泣いてるわけですね。あんまり言いたくないんですけど、不幸だから。

その時、兄貴が言ったことは今でも忘れなくてですね、その兄は専門学校卒の大工さんなんですけど新婚で、かわいい娘がいるんです。実家で鬱屈している私に、なんて言ったと思います?

「学歴だけが人生じゃないってことが分かった?」

すごく悔しかった。とにかく悔しかった。まるで自分が学歴だけの人間のように思われていて、最悪でした。

当時の自分には何もなかったですね。お金、仕事、車、友達、恋人・・・そして、希望も。地位や名誉なんてあるわけがない。キャリアもない。ビジョンもない。当然、魅力もないから全然モテない。とにかく全てを失っていました。

ただ、最後にたった一つだけ自分の中に残っていたものがあったんです。それは”志”でした。「このままでは終われない。死んでも死にきれない」っていうハングリー精神がありました。

このままじゃだめだと思い、なにか始めようと知り合いの紹介で塾の講師のバイトを始めたんです。同時にラーメン屋さんのバイトもしました。少しづつ社会復帰をしていったんですけど、その時たまたま名古屋の編集プロダクションの求人を見つけたんです。

自分は子どもだった、なにも知らない子ども

-大手週刊誌の編集記者として働く事に。そこで世界が広がる

生駒明

私としても大学までの経験から原稿を書くような仕事が向いてると思ってたんですよ。週刊誌に載るような事件や地方のグルメ、風俗の取材なんかをする仕事で主に西日本を飛び回っていました。

ただ、そこの編集プロダクションっていうのが、すっごいきつい職場でして、休日返上なんて当たり前、連日朝から晩までひたすら働くんです。だいたい、みんな1~2年で辞めてくんです。きついから。マスコミの下請けは大体そんなもんなんです。TV局も同じ。そういう業界なんです。

でも苦になんてならなかった。すごい楽しかったです。水を得た魚のような感じです。そこで初めて風俗の世界に触れました。すごく、世界が広がった。こんな世界もあるってことを知ったし多くの事を学びましたよ。

-やりがいを持てる仕事との出会いが生駒少年を青年へ生まれ変えらせていく

うちは実家が自営業だったので、世間が狭かったんです。親もずっと家にいるし、外の世界をまったく知らなかった。今思えば、子どもだったんですね、なにも知らない子ども。

編集記者の仕事をして、各地の歓楽街を回るんです。足を棒にしてね。すごくハードですよ。重い機材を持って電車の中でコックリ寝ちゃって。でも全然苦じゃなかった。本当に楽しかった。

いろんな場所に行くこと、いろんな人の考えを知って見聞が広がること。風俗っていう、こんな世界があるんだっていうことを知って、私の世界は変わっていきました。

『俺の旅』編集長としての生き様

-編集者として東京へ。同業種の編プロで2年、フリーとして1年勤めたのち、念願の出版社に就職する

東京に来てからは名古屋と同じような激務の編プロで2年間、その後1年間フリーの記者として仕事をしました。

その時、付き合いのあった今の会社(ミリオン出版)の編集長に声をかけてもらって、「生駒君にこの雑誌(『俺の旅』)をやってもらいたい」って誘われて入社したんです。ちょうど12年前ですね。

私としては非常にうれしかったですね。大学生の頃、出版社に入りたいってあったんですよ。実は小説とか書いて送ってたんですよ。全然反応なかったですけどね(笑)。

生駒明

-業界全体の業績が落ち込む中、『俺の旅』を担当。周囲が驚くほどの復活劇を成し遂げる

入社当時から『俺の旅』を担当していました。当時から出版業界全体が厳しくて、社内も他の会社もどんどん縮小していくんですよ。休刊になったり、編集部が解散したり。みんなネット業界に行くわけですよね。

3年目の時、今度(『俺の旅』が)売れなかったら“終わり”みたいな時があったんです。

その時に全部出そうと、今まで自分が取材してきたすべてを。どうせ次はないからと、休刊なんだから、終わりなんだから。死にもの狂いで私は理想の雑誌を作ったんです。週刊誌の記者だった頃、こんな雑誌があったらいいなっていうのがあって。

そしたらね。かーーーん!って売れたんですよ。その号が!その次の号も売れた!さらに次の号はもっと売れた!神がかってましたね。本当にうれしかった。まわりも認めてくれて、その勢いで正式に編集長に昇格しました。夢のような時間でしたね。そういう登っていく時期っていうのは。

-今でも毎号「次が最後だ」という気持ちで仕事に臨む

今でも次はない、という気持ちで毎号作ってますよ。業界は依然厳しいですからね。ずっと必死。背水の陣で24時間仕事しています。風呂の中で企画を練り、寝る時も取材のことを考えてます。

『俺の旅』は自分の分身だと思っています。一生この仕事を続けていきたいと思うし。大事にしていきたい。「たかがエロ本のくせに」と言われるかもしれないけど、歴史に残る雑誌を作りたいんです。強いて言えば世の中を変える、時代を作っていくような雑誌を作りたいんですよ、僕は。プライドを持ってね。やれるだけやります。

FENIXZINEを読む若者へメッセージ

生駒明

-『俺の旅』の話をする生駒編集長の目はとてもキラキラしていて少年のようだった。しかし、それは人生に絶望していた”生駒少年”の目とは全く別のものだろう。最後に若者に対するメッセージを語ってもらった

私は伝えたいんです。今の若者に。今つらくても時代は変わるし、人は変わる。変われるんです。

たぶん、今いる世界って非常につらいと思うんです。どうしようもない閉塞感とか欲求不満とか閉じ込められてる感じとか。私もそうだったから。でも、なにがあっても、今つまらなくても。人生は変わるから。突破口は必ずあるから。

私にとってそれは風俗という世界だったんですね。非常に奥が深くて、懐が深い。
知らなかった世界が自分を成長させてくれたんです。

どこか、どこかに受け入れてくれる場所は必ずあるから。絶望せずにとりあえず風俗に行ってみよう!!

生駒明

生駒 明

1973年生まれ。新潟大学人文学部卒業。編集プロダクション勤務を経て、ミリオン出版入社。編集長として10年以上『俺の旅』をトップレベルの情報誌として世に出し続ける。近年は業界活動も積極化させており、3月には「セックスワークサミット」にも登壇した。
編集長ブログを連日更新中 『俺の旅web』こちらも是非。

執筆者プロフィール

新海 亨

新海 亨編集長記事一覧

元大手ハウスメーカー営業マン。お金と引きかえに自由とやりがいを手放す生活から決別するため転職を決意。ある風俗サイトに感銘を受け、デザイナーとして仕事を始めるも、いつのまにか編集員に。最近はハマっている一眼レフカメラの仲間を求め奔走中。座右の銘は“STAY GOLD!!” 東京都出身。

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