甲子園の夢は、形を変えて 広報・求人部の俊樹さん(マダム麗奈グループ)前編~ナイトワーク『ピックアップ スタッフ』~
2025年07月31日

――年初にバイリンガルスタッフのケニーさんの取材でお世話になった『マダム麗奈グループ』。2001年に矢澤麗奈氏が創業した、高級デリバリーヘルスの草分け的存在だ。
同社で今度は広報・求人部の取材ができるという。インタビュイーはチーフの栗原俊樹さん。48歳と筆者とは同世代だが、外見も物腰も、かなりお若く感じられる。
もう長いんですか?と問うと、2年3か月とのこと。現在の主な仕事内容は、オウンドメディアの編集とディレクション。ほかに営業サイトに載るキャストプロフィールのライティングも行うという。
「なるほど。そしてふだんは受付をしたり、キャストさん……御社で言えば“麗奈レディ”のサポートや送迎をしたりという感じなんですね?」
「いえいえ。店舗の仕事はまったく。電話さえ取れません」
「それは最初から?」
「はい。“最初から”です」
“あれ?”と思う。お互い顔を見合わせる。私の仕事もライティングと編集だ。
「もしかして同業さんですかね?」
「そうそう。そうですよ。今日きっと同業さんがいらっしゃるんだと思っていたんです」
「うわ。やりづらー(笑)」
「お互いに(笑)」
もちろん広報室や求人部を置く企業はこの業界にも多くある。が、“専門職”としてライティングや編集、ディレションを行う方にお会いした記憶はない。出だしからあらためて、“部署分けと適材適所”がなされている『マダム麗奈』の先進性に驚かされたわけだ。
野球一筋で強豪校に進学。甲子園を目指したが……
野球少年だったんです。小学校3年生で始めてから、一筋という感じ。ポジションはセカンド。当たり前にプロに憧れて、高校も野球の強豪校に進みました。
残念ながら僕らの代の夏は、地区大会のベスト4。あと一歩甲子園には及ばなかったんですけどね。また僕自身は補欠で、なんとかベンチ入りメンバーに滑り込んだ感じでした。
“才能の差や壁”って、やっぱりあります。例えば他校にはのちにプロに進んだ投手もいて、練習試合で対戦したりする。それがとんでもないボールなわけです(笑)。
もうなんか“持って生まれたもの”を感じちゃって。硬式は断念し、一般受験で入った大学では、軟式野球のサークルに入りました。
「編集者ってどうかな?」で専門学校に。夢をかなえた
「将来つぶしがきくかな」と思って経営学部で学んだものの、理由が理由なんで(笑)、卒業の時期が迫ってもやりたいことが見つかりません。就職活動もほとんどしませんでした。
とは言え、「何かを自分でつくりだしたい」という漠然とした希望はあったんですね。
同時に昔から野球部でキャプテンをしたり、クラス委員になったり、“みんなをまとめてものごとを成し遂げる”のが好きでした。その流れで「編集者ってどうかな?」と。
軟式で野球は続けていましたから、スポーツ関係の雑誌や書籍に携われたら最高ですよね。専門学校に1年通い、幸いこの念願はかなったんです。スポーツ分野を得意とする編集プロダクションに入社しました。
ハードだけど、おもしろい。“好き”を仕事にできていた
超ハードでしたけど、めちゃくちゃおもしろかったですよ。僕の何を気に入ってくれたのか、入社してすぐ副編集長に呼び出されて。
「オレは5年で副編集長になった。だからお前は3年だ!」
どういうことかよくわからないですけど(笑)、こちらは頷くしかありません。“実践主義”で取材現場に飛び込み、記事を書き、企画を立てる……。夢中で働く日々でした。
振り返って僕がツイていたのは、職場の30代40代の先輩が、本当に楽しそうに仕事をしていたこと。「あんな風に歳を重ねたい」と、ポジティブに背中を追うことができたんです。
刺激もありました。そりゃプロ野球関係者に会えばテンション上がりますし、オリンピックが近づけば、思いもかけない競技や選手にも触れられる。まさに“好き”を仕事にできていたかなと。
副編集長⇒デスク⇒編集長。経営的な視点も身に付いた
事実予定?通り3年で副編集長になって、その後はデスク⇒編集長とステップアップ。企画立案や編集業務だけではなく、広告費や制作費の管理、外注スタッフへの発注など、経営的な視点も身に付ついていきました。
プロジェクトリーダーと言うと、わかりやすいでしょうか。プレイヤーとして表に出るのではなく、“縁の下の力持ち”的にチームを支える役割に、大きなやりがいを感じていました。
出版不況に“コロナ禍”がとどめ。遂に編プロを去り……
結果として最初に入った編プロには計18年勤めました。ただ最後の数年は、いわゆる“出版不況”に突入していたんですね。そこに“コロナ禍”が決定的な追い打ちをかけました。
スポーツイベントは軒並み中止で、取材もできません。それどころか工場が稼働しないし輸出入も止まるから、物理的に“印刷する紙”さえないんですよ。僕もなんとか踏みこたえてきたつもりですが、「いよいよ紙媒体は限界かもしれない」と。
そこから数年間は、転職してWebマガジンの編集をしました。紙からWebに活動の場を移し、これからの道を模索していたんだと思います。
でもね、なんか違うんですよ。言ってしまえば充実感や達成感に乏しい。
そこは規模の小さい会社で、個人事業主の方の取材も多かったんですね。それはそれで手の抜けない大切なもの。だけどどうしても、“僕じゃなくても良い”気がしてしまって……。
「もっと自分のスキルを活かせる環境を求めたい。自分のディレクション能力だって、まだまだ試したい」
そんなくすぶる気持ちを抱えた中、出会ったのが『マダム麗奈』だったんです。
――大好きな野球を入り口に、編集者・ディレクターとして順調なステップアップを果していた俊樹さん。しかし出版不況、コロナ禍……。私自身も覚えがあるだけに、あらがえない時世や流れがあると思い知らされる。
しかし彼はめげない。果敢にWebにチャレンジし、3年を過ごす中で、「もっと自分のスキルを活かせる場に」と願う。が、なぜだろう? その次の舞台はなぜ、『マダム麗奈グループ』だったのだろうか?
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