「振り続けたシェイカー」~スタイルグループ代表 滝健二の信念#1

2019年08月13日

by松坂 治良松坂 治良編集者

――『スタイルグループ』の創業は2010年。その後は毎年1店舗のペースで出店を続け、都内でグループ展開を図っている。風俗店以外にも視野を広げる成長企業だ。

振り返れば、その萌芽は既に9年前に見えていた。店員の経験さえなかった滝健二氏が、新宿にオープンした『JKスタイル』。この記念すべき1号店は、翌年には某風俗サイトで“お気に入りお店ランキング1位”となるほどの躍進を見せ、文字通り業界を席巻したのだ。

この時果してどんなマジックを使ったのか? 率直に尋ねると、滝代表は大声で笑った。

「真面目にやっただけです」

拍子抜けする答えだが、口調はそれこそ大真面目そのもの。なぜ“真面目”が第一の答えなのか。そして、それで勝てるのか……。

まず彼の青春時代から、答えを探った。

裕福な小学生時代。でも不思議と、物欲が消えた

生まれですか。なるほど、そこからなんですね(笑)。

関西出身なんですよ。大阪で生まれ育って……。

家は宝石店を営んでいました。幼い頃の記憶でしかないですけど、おそらく、儲かっていたと思います。僕は当時、学区で一番大きな家に住んでいましたので。

田舎ですし、コンビニなんてまだありませんでした。でもスーパーに行くと、店員さんの反応が違うんです。

「あ、滝さんとこの子が来た」

親が毎日千円くれて、好きなものを買う感じでした。いわゆるボンボンですね(笑)。

それで贅沢になったか、ワガママになったかというと、僕の場合、そうはならなかったんです。

不思議なもので、欲しいものが全くないんですよ。

小学生が欲しいものは、大体買えてしまうんですよね。千円を使わないので、5日もすれば4、5千円になるわけですよね。いつでも欲しいものが手に入ると考えると、物欲自体がなくなってしまって……。

気が付いたら、財布なんて持たずに外を駆け回ってましたね。そんな子どもでした。

バブルの崩壊期=中学生時代。180°変わった環境

今思うとですけど、この経験はすごく良かった気がします。

まあ絵に書いたようにというか、バブルが弾けて、宝石店が倒産してしまったんですよ。

1991年から……93年ぐらいに掛けてでしょう? バブル経済の崩壊期というのは。僕の中学生時代とミゴトに重なっています(笑)。

お小遣いなんかもらえない。買いたいものなんて、とてもじゃないけど買えないとなるわけですけど、幸い僕には欲しいものがないわけですよね。

だから苦もなく貧しい生活に入っていけました。おかしな話ですけど(笑)。

手のひら返しというんですか。多感な時期に、色んな人の姿を垣間見れたのも、良い経験でした。世間というのは、調子の良い時には誰だってちやほやするものです。

そうではなくなった時、「ザマアミロ」と思う方もいるでしょう。そこまで行かなくても、得がないと人が離れていくのは、自然なことなんです。

一番大切なのは、それでも側にいてくれる人。そういう人が1人でもいれば、人間てがんばれるものなんですよ。父にとってはそれは、家族だったんじゃないかな。

僕は13歳で、金持ちと貧乏と、両方を知りました。それは本当に、貴重な経験だったんです。

進学率100%の有名校。でもその年だけは……

そんな経済状況だったので、高校はもちろん公立です。同時に教育熱心な家だったので、進学校に入って……。学ぶこと自体は、できたっていうより、好きでしたね。

ところが、だんだん勉強がイヤになって来ちゃったんですよ。

何と言ったらいいでしょうね。周りの同級生たちが、本当に勉強しかしていないんですね。昼休みも勉強している。

僕からしたら、今朝あった出来事の話をしたい。毎日聴いている音楽の話だってしたい。なのにみんな机に向かっていて、黙々と教科書を読んでいる。

まず、心が今いる自分の空間から離れてしまったんですね。次第に学校からも友達からも遠ざかり、勉強もしなくなりました。代わりに音楽が大好きだったので、バンドを組んでドラムをやっていました。ジャンル? 当時、『ミスチル』のコピーが多かったかな(笑)。

高校は、進学率100%の高校だったんです。でもその年、1人だけ進学ぜずに社会に飛び出したヤツがいました。

そう、僕です(笑)。その時にはもう、早く社会に出たい。それだけでしたね。

20歳でバーテンに。最高の仕事との出会い

目標? 当時は何もありませんでした。音楽活動をしながら飲食店でバイトをして、漠然と「音楽で食べていければ良いな」と思っていたぐらいで……。

そんな中、20歳の時に大阪のバーで働き始めるんですが、このバーテンという仕事が、本当に楽しくて。自分の天職だと信じていました。

要は人とお話をして、勤務中にお酒もいただけて、こんな仕事はないだろうと思ったんですね。おまけに給料まで出る。最高じゃないですか(笑)。

居心地も良かったですね。大きな店で、店長みたいなこともやらせていただいて、ずっとそのままでいるつもりでした。

400種類以上の酒。時間さえあればシェイカーを振った

不安? 不安というのは? バーテンという職業だからですか?

ああ、なるほど、不安定なんじゃないかとか、将来性とか、そういうことですね。

その辺は正直、まったく心配していませんでした。バーテンダーとして、やるべきことは
しっかりやっていたので、食いっぱぐれることはないという変な自信がありました。

バーテンの最も大事な仕事の一つが、シェイカーを振ることです。

僕が勤めていたのは、大阪でも一番多く、400種類以上のお酒を置くお店だったんですけど、そこで僕はたぶん、誰よりも多く練習していました。本当に、暇さえあればシェイカーを振っていたと思います。

意外と難しいんですよ。中で氷を八の字に回さないといけなくて。家に帰っても、マイシェイカーに米を入れて振る練習をしていました。

お酒の量も、僕は目分量でした。バーにあるあの銀の計り(メジャーカップ)がありますよね? あれは30ミリと45ミリになっているんですけど、僕にはそれは必要ありません(笑)。

使わずに目分量でお酒を量ってシェイカーを振り、そしてカクテルグラスに注ぎます。1滴もこぼさずにピッタリ、表面張力するまで注ぐことも出来るんです。

カンとかたまたまだと思う人も多いんですけど。そのカンの裏に、とてつもない量の練習があるんですね。実は、20年を過ぎた今でも、目分量でシェイカーを振れます。

どうしてそこまでしたのか?……どうせなら、1番のバーテンになりたかったからです。ただそれだけでした。

――貧乏と、金持ちと。「僕は両方の気持ちがわかる」と笑った滝代表。特筆すべきなのは、物欲への淡白さだろう。簡単に手に入るものに価値がないことを、彼はこの時点で悟っているのだ。

そして1人大学に進まず、バーテンに。なんとなくで始めたはずなのに魅せられ、誰よりも努力し、頂点を極めようとする……。

そう、真面目なのだ。

この先、滝青年がバーテンを辞めることはないように見える。実際辞めない人生も、充分にありえただろう。

だがこの先にあったのは、分かれ道だった。彼はAVプロダクションの社長となるのだ。

滝 健二(たき けんじ)

関西出身。風俗業界歴は9年。進学率100%の高校に通いながら、その年ただ1人社会人の道へ。20歳でバーテンを“天職”と定めるものの、話のタネのつもりで上京したはずが、やがてAVプロダクションの代表を務めることになる。その後、32歳で風俗業界へ。未経験でスタイルグループを立ち上げ、『JKスタイル』を始めとした大ヒットブランドを、数多く誕生させる。

執筆者プロフィール

松坂 治良

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小さな出版社などを経て、”誠実に求人広告をつくろう“という姿勢に惹かれ、現職に就く。数年来クラシック音楽と仏教に傾倒中で、最近打たれた言葉は「芸者商売 仏の位 花と線香で 日をおくる(猷禅玄達)」。……向き合った相手の“人となり”や思いを、きちんと言葉にしたいと願う、今日このごろです。

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