『俺の旅』編集長 生駒明の『平成風俗史』~#1 平成以前:“外”、そして“ある前提”という問題

2019年07月24日

by生駒 明生駒 明編集者・ライター

――平成の世を生きた風俗情報誌『俺の旅』。その編集長だった私が、平成の風俗史を語る……。

だがその前に、平成以前は? というのが、今回のテーマだ。

見えてくるのは、日本の特殊性。“外”と、そして“ある前提”という問題だ。

最古の風俗嬢は、巫女だった?~『日本書紀』の記述~

日本において性的なサービスを提供する者は、古くは『遊女』と言った。興味深いのは、最古とされる遊女が、『巫女』であったということだろう。

『日本書紀〔養老4(720)年完成〕』に登場する『猿女の君(さるめのきみ)』は、神を祭る神主に精神のみならず肉体も捧げることで、息災と五穀豊穣を願ったというのだ。

だが人間が堕落するように、ときに巫女も堕落する。奈良時代になると遊女は各地を巡り、セックスも含まれた接待をすることで、生活を成り立たせるようになる。ある意味ここで、今でいう風俗嬢、風俗キャストという“職業”ができたと言えそうだ。

権力は性も管理したがる。だがいつの世にも『私娼』が

この後、平安・鎌倉・室町と進む中で、国が乱れるごとに遊女の数は増えた。室町時代末期には『傾城局(けいせいのつぼね)』という官庁ができ、遂に彼女たちに税金が課される。『公娼』の登場である。

安土桃山時代の『廓(くるわ)』を経て、江戸期の『吉原』に変化していく中で、同様に権力の側は遊女を“管理”しようとしてくるが、街道の宿には『飯盛女(めしもりおんな)』という私娼もしっかりといた。権力や組織から漏れる者、反抗して生きる者がいるのは、いつの世も一緒なのだ。

廓、吉原と経て近代に。何がいちばん変わったのか

時代は近代となり、大きく変わったのは、“外”が入ってきたことだろう。明治初期には、『からゆきさん(唐人行)』と呼ばれる海外へ移出する娼婦が現れた。これは『鎖国』をしていた江戸時代には考えられないことだ。

同時に人権擁護の立場から、明治10年代には公娼制度の廃止を訴える『廃娼運動』が起こるが、これも知識、学問、新たな常識として“外”が入ってきたからと言えるだろう。

和洋折衷の『カフェー』。世界恐慌、戦争という“外”

大正時代には“外”の影響はさらに顕著となる。

飲み物、食事、アルコールの提供や、それに伴う接待サービスという点で、昭和の『キャバレー』の前身ともいえる『カフェー(特殊喫茶、社交喫茶とも呼ばれた)』が良い例だろう。このカフェーの女給(接待婦)は、伝統的な和服、芸者の装いではなく、前掛けをした和洋折衷のスタイルを取ったのだ。

もちろん経済だって外の影響を受ける。昭和4(1929)年に始まった世界恐慌は日本中を巻き込み、娘を売る貧しい農家が増加した。時を経て第二次世界大戦中は、国外では『慰安婦』が兵士の相手をし、国内は次第に風俗の営業どころではなくなっていく。

上陸してきたアメリカ。言い訳としての“自由恋愛”

そして戦後の“外”とは、何と言ってもアメリカのことだ。彼らは文物としてではなく、人として上陸し、日本に影響を与えた。

早くも戦争に敗れた昭和20(1945)年8月のうちに『RAA(特殊慰安施設協会)』と呼ばれる団体が、アメリカ進駐軍のための慰安所をつくり、娼婦を集めた。基地の周りに、米兵相手の『パンパン』と呼ばれる街娼がいたことを知るご年配の世代もいるだろう。

ご年配と言えば、たとえば数年前、介護施設に『赤線』『青線』の思い出を語る高齢者がいた。

昭和21(1946)年のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による『公娼制度』の廃止を受けて、吉原に代表される従来の遊郭は『特殊飲食店』と名前を変える。これが赤線で、警察が地図上のこの地帯を赤線で囲い、印をつけたのが呼称の由来である。特殊飲食店の許可を受けていない地区は『青線』として区分された。

公娼制度の廃止から始まった話なのに、営業の許可・不許可を問題にしているのがおもしろい。実際赤線の営業に当たっては“自由恋愛は売春にあらず”と言われたのである。どこかで聞いた話、と感じる読者もいることだろう(笑)。

主権を回復。風俗は日本独自の進化を遂げていく

だが昭和27(1952)年、連合国との講和により、日本は主権を回復。昭和33(1958)年には売春防止法が適用されることとなり、この『赤線』『青線』も消えてしまうのだ。

以後、“売春は禁止”という前提から、風俗は日本独自の発展を遂げていく。

ソープランドで行われているのは、もちろん自由恋愛の延長線上のことという前提で、ビーチマットを利用した『マットプレイ(昭和44年に、川崎の浜田嬢が考案した『泡踊り』が起源とされる)』が進化していく。

ほかにも昭和44(1969)年というのは実に興味深い年だ。昭和38(1963)年ごろから都内各地に誕生していた、フェラチオを主なサービスとする『ピンクサロン』。ここで『花びら回転』が開発されたのもこの年なのだ。日米安保に揺れた世相を尻目に、夜の世界では、風俗関係者が商魂逞しく奮闘していたのだろう。

ソフトサービスとしてのファッションヘルス。そして

1980年代初頭にはノーパン喫茶が大流行。また『夕ぐれ族』と称する会員制の交際クラブがブームとなる。

昭和60(1985)年に新たな風俗営業法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)が施行されると、場所や時間の制約から、実際にセックスを行わず、素股と呼ばれる擬似性交などのソフトサービスを行う『ファッションヘルス』が定着していく。

そして昭和天皇が崩御された1989(昭和64 ⇒ 平成元)年、風俗の一大トピックはと言えば、『ダイヤルQ2』の開始にほかならない。新しい出会いをつくる風俗、男女を結びつけるこの“電話情報サービス”は、瞬く間に世間に浸透したのである。

近代までは“お上”との戦い。現れた“外”と、“前提”

平成までの風俗を駆け足で追ってみたが、いかがだろう。

しばしば娼婦が“世界最古の職業”と呼ばれるのはご存じだろう。見たように、日本ではその最古の職業は、もともと神に仕える『巫女』から始まっている。

世が乱れれば遊女(風俗嬢、風俗キャスト)の数は増え、権力は当然秩序と税の観点から彼女たちを管理・統制しようとし続けた。他の産業と違わず、近代までの風俗は大衆と“お上”とのせめぎ合いの上に成り立っていたとも言えるだろう。

明治となり、『鎖国』が解けた。文物両面で“外”が入り込み、装いのみならず、人々の考え方にも影響を与えていく。

戦後はと言えば、アメリカという文字通りの“外”による占領があった。主権回復の後は、“公にも私的にも売春は禁止”という前提のもと、日本の風俗は多様なサービスを生み出し、独自の発展・洗練を見せる。

そして『平成』だ。サービスとしての更なる洗練とソフト化が進行し、『ダイヤルQ2』が登場。行き着いた果てに、人々はとうとう、洗練どころか“素人”を望み、行く手にはインターネットが待っているのだ。

――私が編集長を務めた『俺の旅』が歩んだのも平成である。ある意味でこの雑誌が戦い、敗れたものこそ、インターネットだったかもしれない。

次回からは、その戦いとともに、いよいよ平成風俗の歴史を見ていくことになる。

【参考文献】
『日本売春史・考 ―変遷とその背景―』吉田秀弘,自由社,2000年
『日本売春史 遊行女婦からソープランドまで』小谷野敦,新潮社,2007年
『戦後 性風俗大系 ……わが女神たち……』広岡敬一,朝日出版社,2000年
『昭和 平成 ニッポン性風俗史』白川充,展望社,2007年
『フーゾク進化論』岩永文夫,平凡社,2009年
『不良中年の風俗漂流』日名子暁,祥伝社,2009年
『売春の社会史 上』バーン&ボニー・ブーロー,筑摩書房,1996年
『定本 風俗営業取締り』永井良和,河出書房新社,2015年
『さいごの色街 飛田』井上理津子,新潮社,2015年
『花街 異空間の都市史』加藤政洋,朝日新聞社,2005年
『敗戦と赤線 国策売春の時代』加藤政洋,光文社,2009年

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執筆者プロフィール

生駒 明

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1973年生まれ。新潟大学人文学部卒業。編集プロダクション勤務を経て、2004年にミリオン出版に入社。編集長として“風俗総合誌”『俺の旅』を、15年の長きに渡り世に問い続けた。2019年4月、同誌は惜しまれつつも紙媒体としての役割を終え、現在Webでの再起を図っている。

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