『俺の旅』編集長 生駒明の『平成風俗史』~#3:店舗型ヘルス、全国へ―風俗の“仕事”から見る1990年代―
2019年09月04日
――前回見たように、平成となり、『援助交際』という形で“性”で収入を得る女子高生が現れた。だがそれは、一部の女子高生に限られていたように思う。彼女たちの存在だけで、当時の女子高生を語ることはできないし、同じように“風俗”を語ることもできない。
今回は、90年代の風俗を“仕事”として、しっかり見てみよう。
安い。しかも……。90年代初頭、『西川口流』が流行
戦後に貫かれていたソフトサービスの“掟”を打ち破り、平成2(1990)年前後から、JR京浜東北線の西川口駅前や赤羽駅前に、本番(性行為)ができる『本サロ』系の過激風俗が登場してくる。
1万円前後のチープな料金で、本番だけを楽しめる『個室サロン』『割烹サロン』が『西川口流』『赤羽流』と呼ばれるようになり、安いうえに、若い子と手軽に本番できるという評判が広がって、千歳、新潟、尼崎、福山、雑餉隈など、全国各地に広がっていくのだ。
平成2年、『大阪花博』開催。ソープランドが消える
対照的に、平成2(1990)年に開催された『大阪花博(国際花と緑の博覧会)』を契機に、大阪のソープランドは廃業に追い込まれていく。
平成4(1992)年には、当局の厳しい規制により全滅し、跡地はヘルスへと転向。現在の姿へと続くことになる。
当局側と業界側が折衝し、ソープか『ちょんの間(「ちょっとの間に“行為”をする」が語源)』、どちらを無くすか話し合った結果、ソープを無くす方向にまとまったという。今思えば、長い歴史がある新地がなくならなくて、本当によかったと思う。
万博や国際的な行事など、国内でビッグイベントが行われる時は、必ずといっていいほど風俗の取り締まりが行われる。
海外からの観光客を見越して風紀の乱れを抑えるとともに、治安維持を図るためである。さらに、“臭いものには蓋”をして、先進国としての体面を保ちたい、という意図もあるのだ。
イメクラが大人気に。いったい何がウケたのか
平成3(1991)年、多様なコスチュームに身を包んだキャストが、性的なサービスを提供する『イメージクラブ』が爆発的な人気となる。当初はマンションの一室で“眠れる美女”を観ながら客が自分で処理をするという趣向で、『夜這いクラブ』とも呼ばれた。
イメクラの登場は画期的であった。ただでさえ“非日常”を提供する風俗において、イメージプレイというもうひとつの“非日常”を掛け合わせることによって、遊びの開放感が乗数効果的に増したのである。
イメクラは客の心を鷲掴みにし、熱心な常連客を保持したが、同時に在籍キャストたちは、次第に他の風俗と同様、フェラや素股を行うようになる。イメクラ、ファッションヘルス、性感マッサージの境界がボヤケていくのだ。
平塚に“伝説”の花びら回転サロンが登場
他方でこの年、神奈川県の平塚にピンサロ史に残る名店『平塚ジャンジャン』がオープンする。
本番なしの正統派ピンサロで、少なくとも2人のキャストがつく『花びら回転』がウリ。2~3人のTバック姿のキャストが、代わるがわるフェラチオサービスをすることや、性器への指入れもOKなことがウケて、大繁盛した。
この『平塚ジャンジャン』の流れを受け継いだのが、こちらもかつての名店、本格的な花びら回転で一世を風靡した黄金町の『横浜ニュージンジン』であった。
伝説は終わらず。巣鴨や五反田には今も“行列”の店
花びら回転サービスは、一般客に夢の世界を提供した。それまで複数のキャストと遊ぶには、ソープの二輪車や三輪車のように、それなりの高額が必要だった。近所の駅前で営業されている回転ピンサロは、庶民に高級感と贅沢感を安価で提供する“夢の国”であったのだ。
これが流行らない訳がなかった。令和の現在でさえ、巣鴨や五反田には、開店前に行列ができる店があるほどだ。
90年代、風俗は“マンション”をどう使ったのか
“マンションでトルコ”を略した『マントル』がブームとなったのは80年代。90年代には姿を消している。
プレイの場所が移動不可能なことが災いし、当局の取締りの格好の餌食にされたためだ。代わって前回も少し述べたが、この時期はホテルを利用する『ホテトル』が派遣風俗のメインを張るようになる。
だがマントルは徐々に姿を消しても、マンション内での遊びは、“マンションでヘルス”の『マンヘル』として生き残った。
のみならず人の“想像力”というのは無限なもので、『大人のパーティー』『カップル喫茶』など、ここでも新しい趣向が見られたのだ。私も何度か遊んだことがあるが、独特の隠密感があり、非常に面白かったのを憶えている。
ただ、口コミや三行広告での集客など、存在がアングラすぎて、一般の人には近寄り難い雰囲気があった。私としては、そこが良かったのだが……。
性感へルスが現れたのは90年代後半。“健康”が混ざる
想像力という意味では、風俗は“健康”さえ自分たちの懐に取り込んでいく。
90年代後半、マッサージにヘルス的な要素を取り入れた『性感ヘルス』が隆盛。健康を促進する性感マッサージや性感エステに、それまでにもあった一般的なファッションヘルスの要素を多く混ぜ合わせたサービスは、広く認知されるようになるのだ。
ソフトなSMと、素股などのヘルスプレイがミックスした性感ヘルスは、この後人気のジャンルとして定着していく。
風俗の中心は、店舗型ヘルス。全国規模での展開となる
先にも述べたように、イメクラ、ファッションヘルス、性感マッサージの境界は現在でも曖昧だ。しかしとにかく、プロの“仕事”としての風俗の中心は『ヘルス』だったとは言えよう。
これは地方でも同様である。特に名古屋のヘルスは豪華で、東京からの出張客をもてなす接待の場でもあったという。
また良い悪いはさておき、当時地元の大手企業では、毎年春になると先輩が新人をヘルス街に連れていったと聞く。当時は大人への登竜門的な場所でもあったのだろう。
情報源は紙。ポータルサイトさえなかった。それが……
最後に、“メディア”を見てみよう。この時期、『シティヘブン』『マンゾク』『ナイタイ』『ヤンナイ』などの風俗情報誌は全盛を迎えていた。
インターネットはまだそれほど普及しておらず、90年代後半はまだまだ紙の情報誌が元気だったのだ。どの風俗店も自前のHPなど持っておらず、風俗系のポータルサイトもほとんどなかった。
インターネットが出始めた頃は、とにかく使いづらかった。繋がらない、データの送受信が遅い、回線が途中で切れるなど、トラブルが多かった。今でこそ当たり前のようにネットを使用しているが、平成初期は面倒臭くて不便なものであったのだ。
だが時代が進むに連れて、そういった難点が無くなり、誰もが気軽に使える便利なツールとして定着するようになる。そしてこのネットの普及は、風俗遊びをも劇的に変えていく。
それまで情報誌を購入する一部の人にしか届かなかった風俗情報が、ネットによってあらゆる人々に行き届くようになり、キャストもスタッフも客も、その裾野が飛躍的に広がることになったのだ。
――前回、“援助交際そのもの”でさえ、マスメディアの過剰報道に煽られてのブームだったように感じていると述べた。メディアというのは、それほどに力を持つのだ。
実際この後、紙媒体からデジタルコンテンツへとメディアの重心が移る中で、風俗は業態の“主流”さえ変えて行く。
店舗型から、派遣型へ。『デリバリーヘルス』の登場である。次回はそこから話を始めよう。
【参考文献】
『戦後 性風俗大系 ……わが女神たち……』広岡敬一、朝日出版社、2000年
『昭和 平成 ニッポン性風俗史』白川充、展望社、2007年
『フーゾク進化論』岩永文夫、平凡社、2009年
『不良中年の風俗漂流』日名子暁、祥伝社、2009年
『俺の旅 vol.6』ミリオン出版、2004年
※このほか名前は挙げませんが、多数のネット媒体を参照にしました。
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